暗い話題はなるべく避けたかったのですが、すみません。
いまさらですが、あれこれ終えて東京に戻る途中、携帯であれこれ思い起こしていたらば文字数限界にきて、一度、止めていました。なのですが、日々、あれこれ書いておきたいことがでてきました。
気づくとあれから既に半月以上が経過していたのにびっくり。まだ半月なのね、もう半月なのね。
思いのほか長文になってしまいましたが、ご勘弁ください。読んでいて楽しい記事ではないので、辛気臭いお話が苦手な方はここでユーターンしてくださいませ o(_ _)o
母の妹である叔母が身罷って20日が過ぎました。
末期の病であると告げられたのが昨年夏の終わりでした。母の実家であるこじんまりとした湊町に一人で暮らしていました。幼い頃からの親類一同も多数住まっていますので心安さもあったのでしょう。ふだんから極端に食の細い人だったらしいのですが、さすがに喉を通らなくなり自覚できる異変もあり、ようやく自分から病院に行ったときは時既に遅しでした。
みんなで検査を早い時期からすすめたりしていたのですが、とにかく頑なな人で耳にいれてはくれなかったのです。というか愛用のラジオや本からそれなりの知識や情報は得ていたのに『自分は関係ない』と思い込んでいたのかもしれません。町の行う健康診断にさえ通うこともなく。
さて病にかかるとちょっとした小旅行並みに大掛かりになります。地方でもさらに端の方なので大規模な検査や治療を受けるとなると、車で二時間の我が市までこなくてはならないのです。
直接の病名は胃癌。手術で悪くなってるところを摘出することすら危険で、せめて少しは口から食べることができるようにと、バイパス手術をしましましたのが叔母の誕生日の昨年9月某日。そのかいあってか、それまで何を口にしても味がなかったのが『おいしい』と言うようになったのです。
口にする量はあいかわらず鳥がついばむ程度ですが、それでも点滴だけの栄養補給ではない摂取に、安堵したものでした。
ただ手術でわかったことは、脾臓やあちこちにも転移していることから、余命1年という宣告でした。本人にもそれは伝えられ、もっと大きな専門病院での治療の可能性もあったのですが、そうした治療後に10年でも長生きできるのならばともかく、そうでないのならばこのままでよい、との自らの結論でした。今のうちに会いたい人があれば、連絡してきてもらうよ、という言葉にも「心配をかけたくないから」と最後まで拒み続けました。
その後、自宅療養(この言葉は必ずしも正しくはないですね。治癒の見込みが無いのですから)を病院からもすすめられたのですが、多少は元気になったとはいえ、元気に向かってのカウントダウンではないわけですので、なかなか難しい日々でした。自宅での介護を一切拒んだ叔母は、どうにか病院のあきベッドでの診療を受け続けました。そのあと、病院ではこれ以上預かれないとのことで、一度、本来の自宅に退院しましたが、やはり生活はとうていできないので、父の車で迎えに行き、市内にある別の病院にお願いしてそこで見守っていただくことになったのが、今年の2月のことでした。
介護や末期治療の問題がこれほど自分の身に迫ってきたことはありませんでした。
自分の家族がその一端でどう過ごしたらよいのかを今回、叔母の件を通じて身をもって知ることになったのですが、病院があまたある都会でさえ難しいのに、まして地方の病院でどうしろというのか、と、つくづく感じました。
叔母も介護認定もされましたが、24時間つきっきりというのは、ないんですね。かといって田舎の病院ですからホスピスなんてないし。
やはり1分1秒でも助けたい病院に、助かる見込みの無い患者、ですから。
病院もこちらも、助けたい・和らげたい、苦しませたくない、という思いは同じなので、辛いです。
昨年秋以降、機会があるごとに連休を利用して帰省し、叔母を見舞ってきました。
最初の病院は市内の我が家から車で15分くらいの場所なのですが、術後に移された系列病院は、車で1時間の場所。市町村合併で同じ市になったとはいえ、遠いです。そこへ、ほぼ毎日、仕事後などであっても見舞いに通った両親。元からの好き嫌いもあり病院食には全く手が付かないため、好みそうなもの、食べたものを毎日のように差し入れました。体重は成人女性にも関わらず、入院当初から30キロをきっていました。体力があまりにも落ちているため、強い薬である抗がん剤の治療にも数ヶ月の間とりかかれなくて
透明なサロンパスのような形状の「痛み止め」があることも初めて知りました。それを3日に1回の割合で胸に貼り直してもらうと、眠りにつける、と喜んでいました。薬の効き目の切れる二日目とかにはとても苦しいようで。最期に看取っていただいた病院は、市内でも最初とは別の病院ですが、そこは我が家からもやはり車で10分程度の距離でしたので、毎日会いにいけました。
7月の3連休も、本当に、何の気なしに、通常の見舞いのつもりで帰省したんですね。3連休あればゆっくり会えるなと。やはり遠方ですので、土日の連休だとちょっと体力的にこちらも辛いので。
今でも最期の3日間のやりとりのあれこれが、脳裏によみがえります。
土曜日、見舞ったときには、自力で体を起こせないし声を出すのが苦しそうでしたが、普通に意思疎通ができました。背中をどうにかささえてやって、体を起こすのを手伝ったり、ほんの数日そうやっただけでもとっても披露困憊してしまいました。仕事とはいえ看護師さんやおうちで介護をしてる方のご苦労は大変なものだなぁと、あらためて実感しました。
(お見舞いを)ごめんね。(自分のためにたびたび)帰ってもらって。。という言葉に、「海の日の3連休だから気にしないで。」と話すと、「ああ海の日か」と。うちの田舎の祭りがちょうど22日~24で、週明けだったのでそのことを話題にして、「来週はお祭りやから、花火がここ(病室)から見えるよ」と。ちょうど海に面していて、その海から花火が上がるのです。その言葉に「ああ、花火ね」と言ったあと、「お祭りまでもつかな」とぽろっとつぶやいたんですね。「なに言ってるの。来週だよ。大丈夫だよ」と縁起でもない言葉を一蹴したのですが、そうね、といったまま、ベッドで横になったままでした。GW後、久しぶりの再会だった私がその頃よりは髪が多少は短くなっていたことに気づいた叔母が「髪切ったの?」と、意識もしっかりしていたのに。冷蔵庫に入れていた、スイカの切れ端を口にしたり、ぶどうを2粒口にしたり。ベッドの手すりに手をかけても体を自力で起こせないくらい弱っていました。両親から、「強い薬を使うようになったから、気持ちが悪いらしい」と。病院食に手がつけられないため、その前の週から、点滴をするようになったら、どうもそれがかなりきついらしくて。今までも病院食は食べられなくても、母たちの差し入れを口にしていたので、それなりに元気だったのですが、それで維持するのも限界だったのでしょうね。本人の承諾署名の入った薬使用の説明書がありました。でもこんなに苦しそうなのになぁと。無理してまでその点滴をしなくてはならないのかな、と思ってしまったのも事実です。病院としてはやはり食べ物がとれない以上、栄養をそこからしか取れないので体力維持ができないからなのでしょうね。本人も「(これあると)目をつぶると幻覚?が見える」と言ってました。目の前がくらくらすると。同室の方が寒がりなのか、クーラーも止めていたので、手も汗ばんで苦しそうだなと。
そして翌日。声をかけても、なんだか朦朧とした様子で、看護師さんを呼んだりして、背中をさすってもらったりしていたのですが、それだけなら私でもできるのでと交代して私が背中をさすったりしていたのですが、誰がまわりにいるのかわからないようで。だれが来ているのか名前を言って、さすったり、口に食べ物を運んだりしていたのですが。
担当医の先生が巡回に来た夕方近くには、声をかけてもよくわからないみたいで、まるでドラマのように「ちょっとあちらへ」と母と私がナースセンターで先生のお話をうかがいました。本当にへんな言い方になりますが、どこか冷静な自分がいるんですね。
病気が病気なので、最初からみんながソレ相応の覚悟のもとに、入院生活をそれぞれの立場で見守ってきたわけですが、けっして良好に向かうというわけではなく、少しずつ低下をしていく状態であったのが、急激に低空飛行になってしまったのがこの数日だったようで。
すこぶる状態が悪いということで、先生からも、末期治療の最期の最期の選択を、そろそろ考えておくようにとのことでした。酸素マスク&電気ショック(AEDのようなね)をするのかしないのか、ということなんですね。病院もどこまでの延命を望まれるのかを知っておかなくてはならない段階にきている、と。
病室で話すわけにもいかないので、談話室のようなところに母と場所を移したところへ、仕事を終えた父がやってきたので、先生から言われたことを、伝え、3人で叔母の意思も踏まえた意思確認の話し合いをしました。そういった場合になったらどうしてほしいと言っていたのかと。
病院をあとにするときに、母が「帰るよ。明日また来るからね」と声をかけたのですがうつらうつらしていたので、よくはわからなかったようでした。家までの車内で(父が運転)、「(わたしが)向こうに戻ってからすぐにこちらにまた戻ることになるかもしれないね」と心配の声。前にも薬を変えたときには、その強い効き目(というか副作用)になれるまで少し大変だったから、今度の薬にも早く慣れるといいねなどと話しながらも、年内、もたないかもしれないな、と何度目かの覚悟をしていたのでした。
翌日は、お昼前の飛行機で上京予定で、父は知人とゴルフの予定で早朝から出かけるということでしたので、「秋にまたね」と夜にあいさつを交わして就寝したのですが、朝5時前、電話が鳴りひびきました。病院からの連絡で「脈がとれなくなったので来てほしい」とのことでした。いやな予感というのは得てしてはずれないもので、目覚める前のもやっとした気分の中で、ああ何かあったのだ、と考えている自分がいるんですね。すぐに母が起こしに来てあわてて身支度して、念のためそのまま帰ることになるかもしれないからと、荷物を全部もって父の運転する車に乗り込み、病院へ直行。
ついたときには前の日にはなかった酸素マスク姿の叔母でした。背中に折りたたんだクッションをはさみ、高く上下する胸が呼吸をしていました。脈や血圧などの機械が折り線を描いているよこで、みんなで見守っていたのですが、声は聞こえているから話しかけてあげてという看護師さんの声に励まされて、呼びかけたり腕をさすったりしましたが、意識が戻ることはなく、胸の上下も小さくなり、口からの自力呼吸がなくなり、7時前に旅立ったのです。
看護師さんを呼び、自力呼吸しなくなったことを告げると担当医を呼びに行ってくれたのはいいんですが、先生が来るまでの間、ずっと脈拍などの計測用機械のアラーム音は鳴ったまま。そっか、先生が死亡確認してくれないと止められないんだ。止めてくれないんだ、なんて、考えつつ待つことの長かったこと。早朝から鳴り止まないアラーム音を隣室の人はどう感じたのだろう。
あんまり先生が来ないので、荷物をまとめ始めたりして随分と冷静なことをしたりして。とにかく、なんだか現実のことには思えなくて、母も泣き崩れるとか、そういうこともなくとにかく淡々と。病院からの帰宅の準備や、葬儀屋の手配などを両親とともに済ませ、自宅に戻る途中の車から、東京で仕事中の弟へ訃報を知らせ、叔母を休ませるための布団を出したり、知らせるべき叔母の従兄弟たちへの電話連絡を見守り、葬儀の日程が決まったところで、ひと段落。上京の途についたのでした。飛行機の便を変更もキャンセルもすることもなく。
本当はこんなままで両親だけにしたくはなかったのですが、まさかこんな事態になるとは思ってもいなかったので、連休明けの仕事の段取りをつけに出勤せねばならなくて、ほんとうに辛かった。喪服も持ってこなくちゃだし。
でも最期の最期に、両親とともに叔母を看取れたのはよかったかなと。叔母のためもありますが、なにより両親の側についててられたことが。少しは力になれたのかなと。
翌日は出勤後、上司と忌引きの相談と仕事の引継ぎをして、夕方の飛行機で実家へユーターン。帰ってみると、お通夜中の我が家から大きな声が聞こえてきて。母たちの従兄弟にあたるご夫婦が泊まりこみでお通夜に来てくださっていました。まぁ田舎の人達のことだから、とにかく声が大きいんですよね(苦笑) それと、叔母と一番年の近いイトコ姉さんも来てくれていたので、寂しい思いをさせずに(叔母&母にね)すみました。この姉さんは他の親族の中で唯一、叔母の病状を知っていた人ですので、これまでもお見舞いに来てくれていました。余談ですがうちの田舎では、年上の女性方親戚には「姉さん」、男性は「兄さん」と名前の後につけて呼ぶ風習があるんですね。なので、叔母のことも生前はずっと、姉ちゃんと呼んでました。ある意味、韓国の方の風習に似てますかしらね? 女性は、年上の親しい男性をオッパ(お兄ちゃん)と呼びますよね。その方が伴侶となってからもそう呼ぶみたいですし。(大いなる勘違いだったらごめんなさい)
この方たちがいてくれたおかげで、両親だけが見守るさびしいお通夜にならずにすんでよかったです。昼間にはほかの親戚もお通夜に来てくれたとか。とにかく知らせた範囲が狭いため、しょうがないね。でも本当に血の近い人たちだけでの葬儀だから。
お葬式は、当初、お寺さんでお願いしようとしていたのですが、なんというタイミングか、母たちの田舎のお寺のご住職が同じ日に亡くなられ、その葬儀を取り仕切るのがうちの和尚さんということになったということで、葬儀もお通夜も同じ日程のため、すんごくハードでした。まず我が家のお通夜に先に和尚さんがお経をあげにきてくださり、その足で、2時間かかるその田舎町までお通夜にお出かけ。さて翌日の葬儀ですが、お寺さんは朝10時からということで、こちらを8時には出ないと間に合わないということから、我が家の出棺を8時、その前にお経を7時にあげに来てくださるということで、全員5時過ぎに起床して準備。和尚さんがおいでになり、お経を済ませると、火葬場へ。火葬場は我が家からちょうど市を横断して反対側にあるところで、そこで朝一番に予約を入れてもらいました。そして、骨壷におさめられた叔母を抱え、自宅に戻り、午後3時からの葬儀までしばしの休憩。和尚さんが戻られるまで、お待ちします。なので、葬儀は葬儀屋さんの会葬場ということで、出かけて現地で待つことに。そうこうするうちに、田舎の人々も参列してくださいました。ここで面白いのが、というか面白がることではないのですが、田舎の人達は、つまるところ、その例のご住職の葬儀にも参列されたその足で、こちらに出向かれたのですね。いや田舎のお寺だからみんな檀家さんなんさね(^^;)) 聞くところによると、お坊さんが20人はいたとのことで、その葬儀の総代?のような立場にあったのが、うちの和尚さんなんですね。いやはや、こういう偶然もすごいね。
叔母は、生前、葬儀もあげてくれるな、なにもしてくれるな、としきりにイトコの人にも言っていたそうですが、おくる側の気持ちも汲んでほしいので、せめて20人からいるイトコの皆さんにだけはお知らせして参列していただきました。皆さん一様に驚いてらっしゃって、でも故人の性格は皆さんよくご存知なので、病を得てからの顛末に対して誰も口を挟む人はいませんでした。それだけが気がかりだったのです。なぜ隠していたのかと、責められるのだけはたまりませんから。両親がこの1年をどんな思いで過ごしてきたか。親戚でも本家スジの一番気難しい伯父にも説明し、母に代わり喪主あいさつで言葉につまった父とやつれた姿の母に、おもわず、「がんばれ、がんばれ」と声に出して応援してしまいました。親戚一同に声をかけるととてつもなく大勢さんになるのに、イトコたちばかりの、しんみりとした、こじんまりとした葬儀。会葬者、という席には、唯一、亡くなる三日前にお見舞いに来ていただいた友人の女性だけという(叔母が唯一会いたいと言い、連絡し、病院に来てくださったときにはあまりの衰弱ぶりに心底驚いてらっしゃった。お会いできたのに安心したのかその二日後に永眠したので、二重に驚かせてしまったのですが)、なんともいえない葬儀が終わりました。親族席のみいっぱいの。
『葬式は、ええ!て言うたのに!』、と叔母が空の上から怒っているかもしれませんが、せめてこれくらいの送りはさせてください。
そして、葬儀を終えると、お清めのお弁当を手に、皆さんそのままお帰りになったのでした。遠いからね(苦笑)
なにもかもを終えて、ほっとしたのか、私たちも、手ぶらで帰りそうになって、あわててお位牌と叔母を連れて帰ったのでした。
これからは、我が家の仏壇に、叔母にとっては両親である祖父母とともに祭られます。
春先に89歳で身罷った大叔母が「なんでこんなに早く来たの」と叔母に対して言ってるようで、姿が目に浮かびます。
享年66歳。テル姉ちゃん、おやすみなさい。
来週の初盆には帰省します。
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